平清盛と経ヶ島

−経ヶ島建設が与えた神戸市の発展を考える−

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目 次
はじめに
摂播五泊の制と大輪田泊
経ヶ島築島の目的
経ヶ島という名の由来
松王丸の人柱伝説
経ヶ島建設時期
経ヶ島の仕様
おわりに
付、湊川の変遷

おわりに

−先人たちの苦労−

今、開削から百年余りが経った兵庫運河は役目を終えたとは言うものの、このように幾多の困難を乗り越え、且つ民間活力によって大事業が成就したことは、 「それ自体が貴重な歴史資源でもある(神戸市ホームページ)」であるならば、人力に頼った八百四十年前に施工した清盛の経ヶ島築造の苦難を思うと、経ヶ島も歴史資産であると考えるのは、 筆者の肩入れ過ぎであろうか。
神田兵右衛門頌徳碑
(9図)神田兵右衛門頌徳碑
八尾善四郎の銅像
(8図)八尾善四郎の銅像
なお、目次「経ヶ島築島の目的」の終わりの方で余談として述べた兵庫運河開拓者である八尾善四郎の銅像(8図)は、 高松橋の西端から兵庫運河を見下ろして立っている。新川運河建設者の神田兵右衛門の頌徳碑(9図)は、和田神社の境内に建立されている。 鎌倉幕府第9代執権北条貞時(第8代執権北条時宗の嫡男)が建立したとされる清盛怩ニ言われる 清盛の十三重石塔(10図)は、市電道路の建設の為に北東へ11b移転されたが、    
清盛銅像
(11図)清盛銅像
   
清盛塚十三重石塔
(10図)清盛塚十三重石塔
清盛橋の北詰めにあって新川運河を望める所に立っている。傍に、昭和47年5月建立の清盛銅像(11図)も立ったている。神戸港の恩人としての3人が、 時空を超えた繋がりのあることを考えさせるのである。
清盛が私財を投入して建設した経ヶ島は一応の完成をみたが、数年足らずで突堤が大破して治承4年の国営工事を待たねばならなかった。しかし、その年に源氏再興の火の手が上がり、 清盛も翌養和1年(1181)閏2月に64歳で亡くなり、加えて「一ノ谷の合戦」以後暫く、工事の続行は不可能となった。そして、完成は20年後の東大寺の僧重源(ちょうげん)の修築工事を 待たねばならなかった。清盛臨終の際、〈 頼朝の首を刎ねて、我が墓の前に懸けるべし『平家物語、入道死去』 〉と言った言葉と共に、自分が手がけた大事業たる経ヶ島の行く末を 心残りにしていたに違いない。
清盛の遺骨は、円実法源によって経ヶ島に収められたと伝えられる。しかし、墓と思われた清盛の十三重石塔はそうではなかった。恐らく、安徳天皇や妻の時子と同じく平家滅亡の海、 壇ノ浦の水底に眠っているのではなかろうか。来年のNHK大河ドラマは「平清盛」である。どのような清盛像が演じられるか楽しみである。
                          平成23年3月30日 記
Creating : Jan 7, 2012