平清盛と経ヶ島

-経ヶ島建設が与えた神戸市の発展を考える-

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目 次
はじめに
摂播五泊の制と大輪田泊
経ヶ島築島の目的
経ヶ島という名の由来
松王丸の人柱伝説
経ヶ島建設時期
経ヶ島の仕様
おわりに
付、湊川の変遷

摂播五泊の制と大輪田泊(おおわだのとまり)の重要性

摂播5泊の所在地図
(1図)摂播5泊の所在地図
五泊の制は、奈良時代の僧行基(ぎょうき)が定めたと伝えられている。当時、夜の航海は危険なので、夜半は一日ごとに港に停泊していた。 それは東から、河尻泊(神崎川河口)、大輪田泊、魚住泊(明石市西島)、韓(から)泊(姫路市的形町)、檉生(むろう)泊(たつの市御津町)の5港(1図)である。 奈良時代は大和川を下って住吉の榎名津(えなつ)から出港して河尻泊経由で五泊に寄港しながら西国へ向かっていた。平安京へ遷都してからは、淀川を下って神崎川河口から出港するようになった。 五泊の中でも、大輪田泊は、(1)港と平行に走る六甲山と東へ突出した和田岬によって港への季節風を防ぐ。(2)断層によって海が深く、しかも大きな河川の港への流入がないために浚渫の必要が無い。(3)港が南北に広く、 どの方向からも船が入港できる。(4)潮の干満の差が小さく、船の係留に適している、という利点から、都と西国だけでなく外国を結ぶ中継港として栄えていた。
Creating : Jan 6, 2012