平清盛と経ヶ島

−経ヶ島建設が与えた神戸市の発展を考える−

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目 次
はじめに
摂播五泊の制と大輪田泊
経ヶ島築島の目的
経ヶ島という名の由来
松王丸の人柱伝説
経ヶ島建設時期
経ヶ島の仕様
おわりに
付、湊川の変遷

経ヶ島の仕様

経ヶ島の大きさや場所や形など具体的なことになるとよく解っていない。工事の企画書や仕様、設計図が見つかっていない以上、 『平家物語』の諸本や江戸時代以降に出版された幾つかの資料・絵図などを参考にしながら、埋蔵出土品と照合して考察するしかない。

大きさ

その面積であるが、『延慶本平家物語』や『長門本平家物語』には、1里36町と具体的な数字で記されている。ところで、 1里36町という数字の意味するものは、「古代の条里制によると1里は長さ6町四方の面積で構成されているから、「1里すなわち1里=6町×6町=36町(面積も[町]と呼ぶ)の面積と解すべきもの」と 『源平と神戸(神戸史談会編)』が述べており、『神戸港1500年史(鳥居幸雄著)』にもこれが定説になっていると書いている。
長さの[町]は約109bに相当するので、面積の1町=109b×109b.=11,881平方b。よって面積の36町=36×11,881平方b=427,716平方b≒43万平方b。 この43万平方bは、ポートアイランドの約10分の1の面積である。『源平と神戸』によれば、土の量は仁徳天皇陵と同じ約140万立方bと計算している。
なお、埋め立てに使用した土は、兵庫駅の直ぐ北にあった塩槌山(しおつちやま)を崩して運んだといわれる。勿論、今、この小山の痕跡はない。

場所

しかし、経ヶ島建設以後、島の形は風波による自然現象や家・施設の人工的開発が幾度もなされたので、今日では昔の面影を全く留めていない。 従って、島の位置を正確に特定することは困難で、朧気ながらの推定でしか出来ない。
当時の海岸線は目次「経ヶ島築島の目的」1図の中に点線で書いているように、地質学的に見ても証明されているが、 現在より可成り陸地が後退していて、久遠寺(通称、浜の寺)の辺りから薬仙寺辺りまで湾入していたといわれる。
今日の地図に元禄兵庫津絵図を重ねたもの
(1図)今日の地図に元禄兵庫津絵図を重ねた地図
これは、元禄9年(1696)作成の『元禄兵庫津絵図』(1図)を見ても、海岸線が現在の地下鉄海岸線にほぼ沿うほどに海に向かって前進し、 北は佐比江が、南は須佐ノ入江が深く陸に向かって侵入しているのが判る(現在は両方の入り江とも埋め立てられている)。この二つの入江は経ヶ島築島当時の痕跡を示すものと考えられる。 従って、経ヶ島は久遠寺(浜の寺)から薬仙寺のラインの東へ築島されたと思って間違いない。
明治7年の新川運河(4図、7図)開削中に、大木や巨石が縦横に段状になっていたといわれ、中央市場埋め立て工事中には多数の五輪塔が、また、大正から昭和にかけても、 薬仙寺近くの新川運河から巨石、棒杭が発掘された。記録によれば、1立方bの御影石が20数個、直径30a・長さ6〜7bの先の尖った棒杭が一定間隔に打ち込まれていたという。出土品は、 大輪田泊が清盛以後も度々修築されているから、必ずしも清盛時代のものと断定できないが、経ヶ島からの出土物であるこことに違いはない。
以上の出土物と、大きさの項で考察したことから、経ヶ島は、目次「経ヶ島築島の目的」1図の斜線で囲んだ辺りで南北約1キロb、 東西約400bの矩形になるのではないかと考える。

兵庫津遺跡周辺の遺跡地図
(2図)兵庫津遺跡周辺の遺跡地図
それはそれとして、市道高松線(地下は市営地下鉄海岸線が走る)により 東西に分断されていた神戸市中央卸売市場を東側に集約するのに伴う西側の跡地(2図において小さな黒塗りした台形の部分)を 平成24年4月1日開始〜27年3月30日終了(2012〜2015年)の期間で発掘調査した結果、兵庫城の天守台と思われる石垣やその他構築物の石垣、町屋跡の遺跡、それに関連する什器などが見つかっているが、 現在時点で期待されていた経ヶ島関連の出土物が発見されなかったのが残念である。
                        平成27年4月1日 記

港の形

経ヶ島に建設した港の形について、郷土歴史家たちがいろいろな説を出している。また、ホームページを見ても、江戸時代に経ヶ島関連を描いた絵図は実に10数種を数えるが、 このどれを見ても、前述の『元禄兵庫津絵図』の「佐比江」から「船溜まり」「須佐ノ入江」の辺りを全部ないし一部を立体的に描いた絵図に過ぎない。
港の形として、元禄時代の船溜まり(1図)が痕跡とする説もあるが、目次「経ヶ島築島の目的」の(1図、2図) において示した新川運河にほぼ沿って碇泊地が出来ていただろうとする説が有力である。しかし、これも具体的な根拠を示した説明が見当たらないのである。

幸いに、神戸市兵庫区役所ちづくり推進部まちづくり課H22年5月発行の『兵庫城築城のころの兵庫』を見る機会を得た。これを基に筆者の所見を下記する。

摂津国花隈城之図兵庫津付近
(3図)摂津国花隈城之図兵庫津付近
[文字拡大および□の文字は筆者追加]
元禄9年(1696)の『元禄兵庫津絵図』より遡る時代に作成された『摂津国花熊城之図(岡山大学付属図書館蔵) 』(花熊は花隈とも書く)の絵図がある。 この作成時期の正確な年代は不明であるが、江戸時代の初め頃に描かれたものらしい。天正8年(1580)、池田恒興・輝政父子が、荒木村重一派の籠もる本城「有岡城」の支城としての「花熊城」を 攻略した際に参加した池田家所縁の者の記憶に基づいて描かれたと思われるからである。従って、その信頼度は高いと考えられる。もっとも、江戸時代になってから兵庫津を迂回する筈の西国街道が本図に書かれていて、 花熊城の戦いの頃にここを通っていたことは有り得ないが、作者が江戸時代初期の状態と比較するために書いたためであろうということで、記憶に問題はないと考えてよい。

摂津国花熊城之図兵庫津の部分に平安時代と現在を重ね合わせ
(4図)摂津国花熊城之図兵庫津の部分に
平安時代と現在を重ね合わせ
では、その中に書かれた兵庫津周辺(3図)の部分を現在の地図に重ねてみると4図のようになる。これを見ると、入江になった後世に言う佐比江を残し、 その南に「経ヶ島」が築島され、そして、現在の新川運河にほぼ沿って北方向に港湾を造るべく、経ヶ島から南に向けて築堤した、と考えられる構図になっている。 更に、3図記載の画像では細部が判らないが、絵図には、突堤の上に来迎寺(築島寺)が描かれ、そこに「雑賀孫市宿所仮屋」という注記があるのは、 当時、このような形の突堤が存在していた証しと見てよい。なお、この仮屋は、紀伊雑賀衆の元締めである雑賀孫市が来迎寺を拠点として花熊城の攻撃に参加した時の一時的な宿であったという。 結論としていうならば、4図から判断して、5図の写真のように現在の新川運河が港の入り江になっていたと考えてよいと思う。

現在の新川運河と清盛人形
(5図)現在の新川運河と清盛人形
[文字の場所は推定]
なお、清盛が私財による第1期工事を護岸工事と埋め立てによる「経ヶ島築造」、国営による第2期工事を突堤工事としての「築島築造」として、 経ヶ島と築島とは全く別の工事であると唱える説があるが、これは、『太政官符』に述べられている通り、第2期の国営工事が経ヶ島築造の修築と拡張工事のみに過ぎず、即ち同じ場所の工事とみるのが多くの意見である。

参考として、経ヶ島と築島とは全く別の工事であるとの説を下記しておく。

【参考】「経ヶ島と築島とは全く別の工事」説

明治44年(1911)発行である仲彦三郎編の郷土史『西攝大観』は、第1期工事として「経ヶ島」の埋立工事を応保1年(1161)に着手し、長寛1年(1163)に完成、 第2期工事として突堤の役目を果たす「築島」を承安3年(1173)に竣工したとしている。その編集に加わった郷土歴史家の福原会下山人(えげさんじん)も、 大正5年(1916)5月9日〜7月25日までの27日間にわたって大阪朝日新聞に記載した『神戸町名由来記』で、「経ヶ島」と「築島」は全く別の工事であると唱えていて、
〈 切戸町(きれとちょう)、これは経ヶ島(=埋立て)と築島(=突堤)とが後世地続きとなって仕舞ったが、 矢張り別々であった時の記念の名に切戸を存したのである。島ノ上町(現在の島上町[しまがみちょう]、これは築島の上に在る町の名である、築島は平清盛の築いたものである。… 〉
と述べている。

埋立て方法と順序
(6図)埋立て方法と順序
神戸史学会会員の中島豊氏は、小冊子『清原と福原と経ヶ島(平成15年発行)』で、『西攝大観』を参考にして工事の手順を6図に示して、
〈 @入江の先端を締め切る(護岸工事)、A順次、陸から埋め立てをする(経ヶ島)、 B埋め立て地の先に突堤をつくる(築島)〉
と述べている。

石見義雄氏は、その著書『神戸の町と地盤』で、現在の「中之島(注:中央市場がある)」辺りに 大きな砂州があったので、 この砂州を利用して突堤となる島を築いたのではないか 〉と、説明している。

湖を連想させる地名と切戸町の地図
(7図)湖を連想させる地名と切戸町の地図
JR兵庫駅からすぐ南の町名が、順番に「浜崎通」「北逆瀬川」「入江通」「小河通」「須佐野通」「松原通」「芦原通」と続いているのは、 昔、「須佐の入江」がこの辺りまで深く入り込んでいたからと考えられ、また、義経逆落し鵯越説を唱える兵庫歴史研究会の梅村伸雄氏は、経ヶ島の埋め立てとは全く関係無しに、諸資料の内容から判断して
〈 「一ノ谷」は和田岬周辺にあった湖のことである 〉
と、述べているので、6図に於ける「経ヶ島」埋め立て工事の場所は、この入り江であったと考えられるかも知れないが、 私は、「逆落とし」は清盛が経ヶ島を築いた後のことだから、入江を清盛が埋め立てたと断定することは出来ない、と思っている。むしろ、埋め立てがあったとすれば、源氏政権になってからの大輪田泊改修の時であったろう。
Creating : Jan 13, 2012.  Update : Jan 30, 2016