平清盛と経ヶ島

−経ヶ島建設が与えた神戸市の発展を考える−

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目 次
はじめに
摂播五泊の制と大輪田泊
経ヶ島築島の目的
経ヶ島という名の由来
松王丸の人柱伝説
経ヶ島建設時期
経ヶ島の仕様
おわりに
付、湊川の変遷

松王丸の人柱伝説

目次「経ヶ島という名の由来」の中で述べた『源平盛衰記』の人柱説が、事実或いは伝説に基づいて書かれたのか、 または伝説が『源平盛衰記』の記述によって生まれたのか判らないが、寛政8年(1796)〜寛政10年(1798)に刊行された摂津国を紹介する観光案内書『摂津名所図会』にも 記載されているように、松王丸の伝説は、江戸時代には勿論、今日に至るまでも綿々と伝わっている。
伝説の内容は、書物によって細かい点で多少のニュアンスの違いはあるが、『摂津名所図会』および『兵庫伝説紀行(兵庫歴史博物館ホームページ)』の内容を纏めると、 次のようである。

今の築島寺
(1図)今の築島寺
〈 築いては風波で壊れる築島工事を陰陽博士(おんみょうはかせ) 安部秦氏(あべはたうじ)に占わせてみた。秦氏は「島を築くには、海中の竜神の怒りを鎮めなくてはならぬ。そのためには、30人の人柱を海に沈め、 加えて大小の石に一切経を写し海底に沈めて築島すれば、速やかに成功するに違いない」と。
早速、生田(いくた)の森に関所を設けて、 人柱にするために旅人を捕まえ始めたが、逮捕された本人や家族の泣き声が、和田の松原に響き渡ったという。清盛は、流石にこれを憐れみ執行を伸ばしているうちに、 讃岐国(さぬきのくに)香川の城主大井民部の嫡子、
大正時代の築島寺
(2図)大正時代の築島寺
17才の松王丸が「自分1人を沈めて30人を赦せば、龍神も納得するだろう」と幾度も強く申し出たので、清盛はついにこれを聞き入れた。
松王丸は、白馬の背に乗せられた石棺の中に入り、1000人の僧侶による読経の声が響く中で海に沈んで行った。 人々は涙を流しながら、お経を書いた石を海に投げ入れた。さすがに龍神も感応したのであろう、経ヶ島が完成した。
古図による築島寺
(3図)摂津名所図会による築島寺
その後、清盛が比叡山の観如上人を呼んで千僧を集め、教典を読んで築島の完成 を祝った時、西に聳える神撫山(現在の高取山)の頂きから、紫色の雲が経ヶ島の上に棚引き、美しい楽の音と共に沢山の仏が現れ、その中に松王丸の姿があった。 やがて松王丸の姿は、如意輪観音の姿に変わり、金色の光を放った。
清盛は、この不思議な現象をみて感じることがあったのだろうか、 松王丸を弔う為に、時の二条天皇の詔を受けて、五条大納言国綱卿に命じて人柱となった場所に寺を建てた。これが、現在の神戸市兵庫区島上町にある「経島山不断院
松王の供養塔
(4図)松王丸の供養塔
来迎寺(きょうとうざんふだんいんらいこうじ)、通称築島寺(つきしまでら、1図、2図、3図の始まりとされている。 今でも境内に松王丸の供養塔 (4図)が残っている。 〉

なお、来迎寺については、『摂津名所図会』に、松王丸の伝説とともに寺の概要を次ぎのように記している。

〈 本尊阿弥陀仏 恵心僧都の作。長四尺ばかり。島供養本尊釈迦仏 天竺橋曇弥夫人、頭の黒髪をもって縫の像としたまふ。長一尺ばかり。 弁財天 弘法大師の作なり。平清盛鏡影年五十四歳の時、みづから画きたまふ影像なり。松王小児像人柱と成りし時、十七歳の像なり。長一尺心平相国の作なり。 梅実伽藍 彫刻梅仁一つに当寺古伽藍の図を刻めるなり。その外什宝多し。観音堂本堂の西にあり。鎮守稲荷祠上に隣る。地蔵堂鎮守に隣る。松王人柱印石 本堂の前にあり。 〉

と、可成り詳細に重要文化財的な作品を列記しているが、来迎寺は、昭和20年(1945)3月17日の神戸空襲で焼夷弾(しよういだん)の直撃を受け 一切を焼いたので、今となっては真偽の程は判らない。しかし、松王丸供養塔(4図)は傍らのクスノキとともに、笠に煤を付けたまま焼け残っている。

淡路島にある絵島
(5図)淡路島の岩屋にある絵島
これとは別に、淡路島北の玄関口である岩屋港のすぐ前、海の中に「絵島(5図)」と名の付く岩肌をむき出しにした小さな島が突っ立っていて、 その上に、鳥居と古い宝筐印塔がある。ここにも内容を全く同じくする松王丸の伝説があって、宝匡印塔は清盛が建てたと伝えられる。
また更に、広島県呉市にある清盛が開削したといわれる海峡「音戸ノ瀬戸(おんどのせと)」の畔に建つ「清盛塚」にも、この「経ヶ島」の伝説が纏わっている。

松王丸の人柱伝説は真実か

松王丸の像
(6図)松王丸の像(来迎寺蔵)
松王丸の人柱伝説は、伝説として受け止められているので、「源平一ノ谷合戦」に於ける「鵯越えの逆落としの場所はどこか」が 学者や郷土歴史愛好家などの間で論争になっているようなことはない。しかし、書物によって、その見解に違いが見受けられる。
『神戸物語[岡久殼三郎(こうざぶろう) 著昭和53年発行]』は、
〈 人柱を使用したと記された書物は『源平盛衰記』と『皇年代略記』だけで、『流布本平家物語』や『長門本平家物語』及び『帝王編年記』は、 経石を沈めたとしている。近年に編纂したものには多く人柱の伝説を取り入れているが,要は工事の如何に困難なりしかを證するもので、当時の技術よりしては容易な埋立工事でなかったことは充分に知ることが出来やう。 〉
と、人柱伝説を肯定も否定もしていない。

また、「神戸史談会」編纂の『源平と神戸(福原遷都から八百年)』では、『流布本平家物語』を採用して、
〈 清盛の卓抜な識見の現れを示したものといえるであろう〉
と、清盛を称えつつも、次いで人柱伝説を書いて、
〈 この経石と人柱の二話は、その真偽はともかく困難な大事業である築島工事を目出度く順調に成功させるためのものと解すべきであろう。 〉
と、これも中立的な見解である。

一方、清盛を好意的に見る元木泰雄氏の『平清盛の闘い―幻の中世国家―』は、『流布本平家物語』の説を採用し、
〈 同書には、人柱を立てようとする公卿の僉議(せんぎ)を退けて、清盛が経文を書いた石を沈めて工事を完成させたという、 信深い貴族と無駄な犠牲を回避する合理的な清盛とを鮮やかに対比した逸話が見える。〉
と、人柱説を否定している。

これに対して、鳥居幸雄氏は『神戸港1500年』で次のように、人柱を肯定的に解釈をしている。
〈 讃州香川の城主、大井民部の子であった松王丸は、幼少の頃から小松内大臣重盛(清盛の長子)の近習(きんじゅ)として仕え、 心優しく利発な少年として小松殿に寵愛され、小松の一字である松を貰って松王といっていたのである。当時の宗教観、倫理観(注1)から、この松王丸伝説はひょっとしたら真実であったかもしれない。 また、経ヶ島不断院来迎寺の存在であるが、本寺の建立経緯は、史跡ガイド(注 『摂津名所図会』)では、「この寺は経ヶ島築造の当時、人柱の犠牲となった松王小児のためにその菩提を弔った寺で、 清盛の命により建立された寺である。もとは門口町の辺りにあったが、後世に現在の地に移転し浄土宗西山派となった」と記されていること等を考えれば、松王丸伝説はあながち単なる伝説のみと否定できない気がする。 〉
注1:平安期には末世思想が起こり、極楽往生を願う浄土思想が貴族界や庶民の間にまで広まった。 また、平安末期に、心から「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀如来を信じれば、必ず極楽浄土に生まれ変わるという「法然」の念仏仏教が流行。

久遠寺
(7図)久遠寺
上記4人の所見のうち、鳥居幸雄氏が述べておられる「来迎寺すなわち築島寺はもとは門口町辺りにあったが、後世に現在の地[島上町(しまがみちょう)] に移転した」に注目してみよう。
現在、門口町にある久遠寺(くおんじ、7図および目次「経ヶ島築島の目的」の1図は、 通称「浜の寺」と呼ばれていて、平清盛が経ヶ島を築いた当時、この久遠寺のある付近が浜辺にあった為であろうと云われている。 久遠寺の建立は清盛の時代からもっと後の事で、元禄5年(1692)の記録によると、永享年中(1429〜1440)、日隆上人(にちりゅうしょうにん)が開基したとある。 従って、「浜の寺」の由来から久遠寺の前にもここに寺があり、それが今、経ヶ島と云われる場所に位置する島上町に建つ来迎寺(築島寺)の前身ではないかと云われている。そうであれば、 清盛が、わざわざ門口町にあった「浜の寺」を経ヶ島の場所(島上町)に移転したのは、何らかの意図で、即ちそれは人柱となった松王丸を供養する為であったと考えてよいのでないか。 こういうわけで、松王丸の人柱伝説はかなり内容が修飾されてはいるが、伝説の内容は本当にあったと思うのである。
Creating : Jan 9, 2012