平清盛と経ヶ島

−経ヶ島建設が与えた神戸市の発展を考える−

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目 次
はじめに
摂播五泊の制と大輪田泊
経ヶ島築島の目的
経ヶ島という名の由来
松王丸の人柱伝説
経ヶ島建設時期
経ヶ島の仕様
おわりに
付、湊川の変遷

経ヶ島という名前の由来

一般に、石に経文を書いて島や怩ネどに埋めて冥福や安全を祈願した場所を「経ヶ島」と名付けているようで、 本稿記載の経ヶ島を始め倉敷市や川越市などにその名が存在する。 本稿の経ヶ島については、『流布本平家物語』に
 
古代の防波堤や護岸の工法
(1図)古代の防波堤や護岸の工法
(奥村喜代著『国際港都の生い立ち(その一)』より)
新川運河から発掘された「いわくら」
(2図)石椋(いしくら、いわくら)
新川運河から発掘
 
〈 福原の経の島について、今の世にいたるまで、 上下往来の船わづらいなきこそ目出たけれ。彼の島は、去る応保1年(1161)[(筆者注1:最近の研究では承安2乃至3年(1172〜1173) 説が有力]  2月上旬に築きはじめたりけるが、同年の8月に、にわかに大風吹き、大波たって、みな揺り失いてき。又同3年3月下旬に、阿波の民部重能(しげよし、筆者:注1を 奉行にてつかせられけるが、人柱たてられるべしなんと公卿御詮議有りしかども、それは罪業なりとて、石の面に 一切経を書いてつかれたりけるゆえにこそ、経の島とは名づけたり (『新日本古典文学大系岩波書店』) 〉
注1:『流布本平家物語』では重能。今残る『平家物語』各異本のすべてに、平氏の武将としてしばしば登場する人物。 彼の業績については、徳島県立博物館友の会会報『アワーミュージアム第 23号 博物館での新鮮な感動 大石雅章著』に詳しく記載。

と経ヶ島名付けの由来と、工事に苦労したことが書かれている。

一方、古谷知新編、国民文庫刊行会発刊の『源平盛衰記』では、

〈 福原の経ヶ島を築きたれし事、直人のわざとは覚えず。彼の島をば、阿波民部大輔成良(筆者注:『流布本平家物語』では重能)が承りて、 承安2年[癸巳(みずのとみ)]歳築初たりしを、次年南風忽(たちまち)に起こりて白浪頻(しきり)に扣かば、打ち破られたりけるを、 道倩(つらつら)事を案じて、人力及び難し、海龍王を宥(なだめ)奉り可(べ)しとて、 白馬に白鞍を置き、童を一人乗せて、人柱をぞ入れ被られける。其の上又法施を手向け奉る可しとて、石面一切経を書き写して、其の石を以て築きたりけり。誠に龍神納受有りけるにや、その後は恙がなし。 さてこそ此の島を経ヶ島とは名付けたれ。上下往来の船の恐れなく、国家の御宝、末代の規模也。唐国(注2)帝王まで聞こえ給えつつ、日本輪田の平親王と呼びて、諸の珍宝を送り被られける。 帝王へだにも参り不(ざ)るに、面目有り難きなりき。 〉
注2:唐国は誤り。その頃は唐が滅びていて、南宋の帝王「孝宗」が中国を支配。しかし、当時は中国を通称唐(から)と 呼ぶ習慣があったとの説もある。

と、人柱説を取り入れて、難工事であったことを示している。

因みに、当時の工事方法は、1図に示すように、護岸の役割を果たす「石椋[いしくら、いわくら(2図)]工法」と防波堤の役目を果たす 「船瀬工法」を用いていたが、特に工事中の際に、海と接する末端の部分は大波に対して崩れやすかったに違いない。
Creating : Jan 8, 2012