平清盛と経ヶ島

-経ヶ島建設が与えた神戸市の発展を考える-

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目 次
はじめに
摂播五泊の制と大輪田泊
経ヶ島築島の目的
経ヶ島という名の由来
松王丸の人柱伝説
経ヶ島建設時期
経ヶ島の仕様
おわりに
付、湊川の変遷

経ヶ島築島の目的

経ヶ島の位置、範囲
(1図)経ヶ島の位置、範囲
しかし、大輪田泊が天然の良港とはいえ、一つだけ欠けていた。それは、和田岬が突き出て南の風を防いでいるが、東と東南は何も遮るものがなく(1図)、 ひとたび暴風が来れば停泊中の船までがひっくり返る有様であった。そこで、清盛が登場するや彼は、この大輪田泊の東側に経ヶ島(1図)と名付けられた人工の島を造営して港を建設し、 小型船だけでなく外洋船も安心して碇泊出来るようにしたのである。

清盛の経ヶ島築島の目的について、平家自身に巨万の富を得させて全国制覇を目差したなどとさまざまな論評があるが、 彼の考えは国家繁栄の見地から大輪田泊を利用して対宋貿易を盛んにすることであったと思う。その為に、諸国から入港す
新川運河と兵庫運河の地図
(2図)新川運河と兵庫運河の地図
る船に利便を与え、安全に碇泊出来るようにすることであった。 当時の公卿で内大臣であった中山忠親の日記『山槐記』の中に、私財を投じた経ヶ島築島が、波の勢いが強すぎる為に、度々、修理を必要とするので国費でお願いしたいという 治承4年(1180)2月の太政官符にある清盛の奏状を紹介している。これを現代文に直したものが『鳥居幸雄著、神戸港千五百年史』の中にある。これをお借りして一部分を要約して下記する。

〈 ・・・・輪田崎(わだみさき、和田岬)は船の出入りが繁昌している所であるにも拘わらず、 東南の風が強く当たるので凌ぐことが出来ない。これも船の良い泊まり場が無い為である。そこで私は平野の景勝地に住んでみて輪田崎が重要であることを知った。数代の天皇に仕えて相国の位まで上り、 官位を止めた後は菩提の道に入った。報恩の一つでもと思い、世間が喜ぶことをしたい。そこで諸国の人が恐れ歎きとしている海難を除く為に自分の労力と費用を投じて新島を築いた。 しかし、波勢が険悪であるために石椋(いしくら、いわくら)が十分でない。形が出来ていても安全なものでない。それで今後は諸国の功と力を借りなければ、 続けて営築が出来ない。・・・・。幸いこの請願を容れられて、国々へ宣旨を下されば、海難の恐れがなくなり、貢ぎ物や個人の財貨及び損失が無くなるとすれば、国家万代の繁栄であると考える。 〉

とある。以て清盛の築島の目的を知ることが出来よう。

ここで言う「東南の風」が如何に強かったかは、実際に、明治4年(1871)に発生した暴風雨の直撃を受けた兵庫港が、鋼鉄製の小型蒸気船が陸へ乗り上げたり、 和船の破壊が数知れずあった(難破船580隻、死者24人、行方不明者16人)というから、相当な破壊力であったのだろう。また、和田岬を迂回して兵庫港に入る際に、 東尻池および駒ヶ林沿岸(1図)に数多くの難破船のあった記録が残っている。

余談になるが、それを防ぐ為に、兵庫の出在家町の豪商・神田兵右衛門によって明治7年(1874)に兵庫運河の築造が着工されたが、 難工事のため明治9年(1876)に船舶の避難地として新川運河だけが完成した。その後、八尾善四郎などの協力により、和田岬迂回のバイパスとして明治29年(1896)着工、 明治32年(1899)に兵庫運河全体が完成した(1図、2図)。
Creating : Jan 7, 2012